違いを楽しむこと

星野源のANNで、若い頃は同じものが好きな人とそれを共有することを楽しんでいたけれど、結局は人それぞれ全然違う人だということに気づいて、今は違う部分を楽しめるようになったと話していた


私もいつか、そんな風に思えるんだろうか

結局はみんな違うというところまでは行き着いたけれど、他人と関わらない方に動いてしまっている

違う部分にびっくりしたりイライラしたりしたくない

違う部分が面白いと思えるほど、その人を魅了的だと思えない

他人と深く関われば関わるほど、自分の殻が厚くなっていく気がする

怒りに呑み込まれていた

フジロックの開催について、ずっと反対だったしいざ開催されるとやはり言葉だけの感染対策で怒りを感じた

そこで終わりにすればいいのに、SNSフジロックについて検索して「あれもだめ、これもだめ、こいつもだめ」とムカつく先を探し回ってしまった


途中でよくないループに陥っていると気づけて良かった

怒りの先に具体的な行動があり、そのための情報収集として検索するならいい思うけど、怒るために探すのは本当に良くなかった


私はフジロックに反対だけど、だからといって何かアクションを起こさない、起こさないからもう考えるのはやめる

医療機関に影響が出ないことだけ願ってる

体験と意志のない怒り

ワンピース魚人島編を読んでいる

ホーディの正体を「こいつらの恨みには体験と意志が欠如している!実体のない、空っぽの敵なんだ」と現していた


とても身に覚えのあるセリフだった

自分自身は被害に遭っておらず、それに対してどうしたいかの意志もない怒り


ネットで他人の怒りが見えやすくなった時代、それに乗っかって騒ぎ立てるのは娯楽の一つになった


それに乗っかり「怒るために怒る」ことがないようにしたい

怒りは自分のために使う

愛を捨てることはできない

「1人で生きれるようになる」

ここ一年それについてよく考えてきた

コロナで人と会えなくなって、彼氏とも別れて、何度も何度も考えた

1人でも大丈夫な気がする、と思う瞬間と、自分のためだけに生きるには長すぎると思う瞬間を行ったり来たりしている

叶うなら、誰かに愛されたいし愛したい


ヴァイオレット・エヴァーガーデン上を読み終わった

後書きに「ひとりで生きていこうかなと思い、小説を書き始めた」とあった

一人を決意して描いた作品があんなにも多様な愛で溢れるなんて

大人になった

いろんな価値観があるということを少しずつ認識して、受け入れられるようになった


それぞれの立場による言い分を考慮できるようになってきたけど、「これが正解だ」とはっきり言えなくなった


言い切ることがかっこいいと思っていたけど、子供だったんだな

取捨選択

嫌なことについて友達に愚痴ろうと思ったけど、なりたい自分から離れるなと思ったからやめる


何者の「選ばれなかった言葉のほうがきっと、よっぽどその人のことを表してるんだと思う」という言葉の意味を、初めてちゃんと理解できた気がする


時には口に出す方が簡単だ

そんな時、あえて口に出さなかったことに価値が現れる気がする

常識的に考えない

少し嫌なことがあった

遊ぶ約束を当日に向こうが覚えてなくて、無かったことにされた


原因は完全に向こうのスケジュール管理ミスだったのに、謝りもせずヘラヘラ誤魔化しててイラっときた

怒るのもどうかなと思ったから適当に調子を合わせて切り上げたけど、常識的に考えてどうなのと思った


しばらくは人としてそんな常識もないのかと一人で憤っていた

でもよく考えると、常識から外れたから嫌なのではなく、私の時間と気持ちを蔑ろにされたのが嫌なのだ


今回の件に限らず、私は「常識的にどうなの」と起こりがちな気がする

これは怒りを簡単に片付けて、本当の理由を有耶無耶にしちゃう気がする

私が何を、どう嫌だったのかを意識して怒るようにしたい